やはり、いすみ鉄道はいい!









東京からこの近さで、
こんなにローカル線を堪能出来るなんてねえ。
でも、お客さん少な過ぎ。
それとBOXシートだとなおいいなあ。
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テーマ: 鉄道 - ジャンル: 趣味・実用

コメント

  • 2017/06/13 (Tue) 11:02
    No title

    この車両とベンチのコラボ、ローカル線でよく見かけますよね。丹鉄の車両もこれで、しかもガラッガラ。まったくこの写真の車両と似たような車内でした。

    その丹鉄ですが、宮福線の福知山へ行く車窓はこの写真よりも更に山深く、かつ険しいのです。歴史的には千何百年の昔から京の都への往来があったようですが、今はともかく、昔の人はどうやってこの山々を切り開いたのか、なぜそうせざるを得なかったのか、不思議ですねぇ。

    • 切れ込んじゃいないよ。 #-
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  • 2017/06/15 (Thu) 22:37
    No title

    丹鉄ですか、いいですねえ。
    うちの息子は、完全なるローカル線オタクで、
    関東近県では、伊豆急、箱根登山鉄道、いすみ鉄道、小湊鉄道が一押しなんですが、
    関西方面だと、丹鉄の丹後エクスプローラーが一番のようです。
    一度は連れていかんかなと思っています。

    丹後って、すごく山がちですよね。
    何処にでようと、それこそ京でも大坂でも山伝いです。
    でも、反面、平安の昔から山がちとはいえ、
    至近距離であることは間違い無かったので、
    都の影響を色濃く残したりしていたわけです。

    かの本能寺の変でも、
    光秀の軍勢1万2千は、丹後から出発して途中進路を変えて、
    本能寺になだれ込むわけですが、
    それが可能なくらいに丹後と都の間は、
    行き来するのが容易だったのかもしれませんね。

  • 2017/06/19 (Mon) 18:16
    No title

    >かの本能寺の変でも、
    まぁ言っても亀山城は京都まで山ひとつ超えるだけですから...とか言うのはクチだけで簡単なんですけど、ここが京都かと思えるほど急峻ですから、いうよりも結構大変だと思います。

    確か光秀は、山越えするのに一晩かけて、兵にメシ食わせて、手柄たてただけ恩賞もらえるとか煽りに煽って戦わせた、と記憶してます。

    でも...

    一日山ん中を歩かせて山を越えさせて、嵯峨嵐山を経て中京区西洞院通蛸薬師通下る本能寺町まで来るわけでしょう、いくら恩賞沢山もらえるとはいえ、これ相当ハードモードですよ。絶対に歩くだけでしんどい。今ふうの言い方でいえば、これはブラック軍隊じゃないでしょうか。

    あと、まさに小生、本能寺跡のすぐ近くに住んでいるのでわかるんですが、信長の息子が二条御所にいたんですよね。本能寺と二条城って凄く近いんですよ。相当近い。だから、疲れて帰ってきた兵隊には負けないと思うんです。そこまで少なかったとは思えないんですけどねぇ警護の兵。

    織田方は、寡兵かつ二手に分かれていたとはいえ、山を越えてきたばかりの1万数千の兵...なんとか持ちこたえられそうなものだと思うんですがね。光秀が戦上手だったんでしょうか。信長が是非に及ばなかったわけですから、そういうことなんでしょうね。

    • コンディションはいいんだよオレは。 #-
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  • 2017/06/22 (Thu) 23:48
    隊長殿

    一部の説によると、
    少なくとも二条城の信忠は、
    京から脱出可能だったといわれています。
    実際に二条城から逃れられた人もいたようですし。
    信長は、光秀をよく理解していたはずですから、
    本能寺を囲まれて逃げ出せるとは思っていなかったでしょうし、
    逃げ出すことが是とはしなかったでしょう。
    プライドの問題だったと思います。

    信秀はと言うと、
    彼の逸話というのは非常に少なくて、
    人となりがよくわからないんですが、
    どうも、親父は絶対的な存在だったらしく、
    親父に忠実な息子だったようです。
    ですから、二条城も討ち死に覚悟の玉砕へと向かったのだと思います。
    後追い自殺に近かったのではと考えます。

    光秀の軍は、確かに強行軍ではありましたけど、
    徹夜に近い行動、しかもそれが革命軍となれば、
    半端でないハイテンションなエネルギーを抱えていたと思います。
    謀反を起こす側が、とても順調に運ぶことなどそうしないですが、
    本能寺の場合は、そんな稀な例だったわけですから、
    いつもの光秀軍よりもはるかに強力だったのではと思うんです。
    実際、本能寺の変の後の光秀軍は、悲しいくらい貧弱な軍隊になつてしまったわけですから、
    本能寺以後は出がらしだったのでしょうね。

    まあ、丹後という土地、
    応仁の乱の時もキーになった土地ですから、
    都と丹後、密接な関係だったんでしょうね。

    • トルファン #-
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